関口新進流「新心館」

流派の歴史

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関口家 家系図

家系図 家系図

開祖‐関口弥六右衛門氏心 (うじむね・号は柔心)

 関口柔心(本名は弥六右衛門氏心で柔心は号)の生まれた関口家は戦国大名・駿河国主今川義元の一門で清和源氏の名流です。柔心の祖父関口刑部大輔氏興は今川義元の妹婿で、徳川家康の正室築山殿の父であり、今川家や徳川家とも姻戚関係にありましたが、今川義元や築山殿、その息子徳川信康の失脚から、柔心の父氏幸の代には牢人となりました。
 このため、柔心は名門関口家の復興を志し、武芸の上達に全てをかけることとなりました。家伝の武術を元に、全国を武者修行し、居合術の開祖・林崎重信より居合の伝(古伝の居合を墨守する当流では今も林崎の居合を色濃く残しています。)。三浦義辰より組討ち術、長崎で拳法を学んだりしました。この後、益々技法に磨きをかけた柔心はついに「柔」を大成し大いに評判を得ることとなりました。
 当初、大和郡山本多家に仕官しましたが、思うところがあって、自ら郡山藩を致仕しました。武芸で身を立て家名の復興を望む柔心にとって郡山藩では器が小さかったのかもしれません。
 この大望を抱く柔心を懇望して迎えてくれたのは紀州藩祖・徳川頼宜公でした。
 頼宜公は紀州55万石の大大名でしたが、気性激しく、特に武術には厳しい人物で、当時「紀州の武辺は世に冠たり」といわれていました。それは、徳川宗家への強い対抗心をもっていたことでも知られていた頼宜公が、武芸に関しても将軍家に負けない人物をという思いからでした。 この頼宜公の目に叶ったのが柔心で、柔心もまた頼宜公の人物に惚れ込み、紀州に留まることとなりました。
 柔心の身分は「客分・御合力金75両」でした。これは正式な藩士ではなく、頼宜公の相談相手としての身分保障です。同じ頃、肥後細川54万石に召し抱えられた宮本武蔵も「客分・合力米三百俵」でしたので、柔心の技術を頼宜公がいかに高く評価していたかがわかります。
 頼宜公は柔心の武術に惚れ込み「代々の藩主は関口新心流を学ぶべし」と遺命しました。これ以後の関口家の当主は代々、関口新心流の「御流儀指南」として明治の廃藩まで紀州藩士として藩に仕えました。
 晩年、「我、年寄り気根も薄く老衰しけれど常に柔らの心を忘れべからず」と隠居剃髪し「柔心」と号しました。

二代‐関口八郎左右衛門氏業(うじなり・号は魯伯)

 氏業は父、柔心に劣らぬ熟達者でしたが(柔心の域に達したものは氏業と氏英のみといわれています)、常に謙虚で「弟・万右衛門氏英」のほうが腕は上と、自ら愚かな年長者と言う意味の「魯伯」と号し、武術指南役を譲り、氏英が三代宗家となります。
 これ以後、「嫡家」は氏業家が、「武術指南役家」は氏英家が継ぐこととなります。現在の宗家はこの氏英家の子孫です。
 氏業は武術だけでなく学問にも優れ、治世に関しての能力も高かったため、後に「寺社奉行」「御新番組頭」等を努め四百石にまで加増されました。氏業の門下生には信州松代藩主・真田信房、渋川流の開祖・渋川伴五郎義方がいます。

三代‐関口万右衛門氏英  (うじひで・号は了性)

 氏英は兄・氏業にまさる遣い手で、関口家の伝承・伝書「大人雑話」等では「柔聖」といわれ、氏心の業に達したのは氏業、氏英の二人のみと言われています。兄の氏業をもってして「われ嫡子ながら、氏英に及ばず」と言わせたほど柔術に優れ「氏英の技は、実に柔らかにして、身柔らかなる事ばかりなり」と言われていました。大御番の組頭250石を賜い、武術指南役として仕えました。

四代‐関口弥太郎氏暁   (うじあき・号は蟻楼)

 弥太郎氏暁は「剣の達人」として知られています。
 氏英の嫡男氏一が成長するまで師範家を継ぎました。戦前は講談などでよく取り上げられていました。講談などでは、弥太郎氏暁は奥州二本松藩士とされ、夫人とともに仇討ちの旅に出るという設定になっており、胸のすくような剣の使い手として描かれています。
 柔心・氏暁は、宮本武蔵が有名になると同姓同名を名乗るものが出てくるのと同じく、和歌山の本物ではない関口柔心、弥太郎氏暁が現れました。講談話の他にも、弥太郎氏暁の別人が弥太郎を名乗って江戸にいたようで、現在もその墓所が残っています。
 馬術にも秀で、全国を漫遊したため全国に名前が知られていたと言います。

五代‐関口万右衛門氏一  (うじかず)

 氏一の時の紀州藩主は、のちに徳川将軍家をつぐことになった吉宗公です。吉宗公も若い頃当流を学びました。吉宗公は八代将軍になると、氏一に「関口流指南のため、高弟を江戸に送るよう」命じております。

六代‐関口外記氏元    (うじもと)

七代‐関口万平氏記    (うじのり)

 六代・氏元・七代・氏記の時、当流は一時存続の危機に陥ります。この二人は気性が激しかったのか、藩主からの叱責を受けて家禄を減俸されます。しかし、七代・万平氏記は相当の使い手で、形の形骸化を防ぎ教授法・稽古法の改革に取り組みました。その名声を慕って江戸より幕臣(鈴木杢右衛門友仁)が和歌山に入門を希望する程でした。
 氏記は「開祖より三代の再来」と言われました。
 「形の華法化」を嘆き、幕末、剣術が実戦での実用化を目指し防具稽古がはじめるより早く、柔術においては当流の氏記がすでにこの問題に取り組んで改革に努めていました。

八代‐関口万右衛門氏敬  (うじたか)

 氏敬は真摯な出仕と家業出精により、先代の不行跡を許され、関口家の面目を施し、相続の危機を脱します。また、氏敬は文才があり、指導者としても大変優れた人物でした。
「柔指南口伝心持」等の伝書をのこしています。これは今も関口家にのこされ、大変優れた武術指導書であります。

九代‐関口万之丞氏贇   (うじよし)

氏贇は家督相続後わずか三年で病死します。

十代‐関口柔心氏胤    (うじたね)

 柔心氏胤は十六歳にして家督と指南家を継ぐこととなりました。
 慶応三年(1867)には藩主に従って長州征伐に参加します。激動の幕末を必死に生き抜き流儀を守り抜いた柔心ですが、廃藩置県となり紀州藩がなくなると上京し、福沢諭吉と親交を結び、その縁から慶應義塾の舎監や柔道教師を務めました。
 その後、再び和歌山に戻り、県立和歌山中学の柔道教師を務めました。後に、武徳会が設立されるとその招請を受け、門弟を連れて同会に参加します。大日本武徳会柔道範士・武道選考委員・武徳会柔術形制定委員等の斯界の重鎮として活躍しました。

十一代‐関口万平氏柔   (うじなり)

 万平氏柔は和歌山に「親武館」を開き、門弟を育成するとともに整骨業・製薬業を営みます。家伝薬は「関口楊柳堂」の名で販売され、大変好評を得ました。大日本武徳会柔道範士に任ぜられました。

十二代‐関口芳太郎氏中  (うじなか)

 芳太郎氏中は台北師範学校・大日本武徳会武道専門学校卒業後、和歌山師範学校柔道師範として後進の指導に当たりましたが、大東亜戦争の際に和歌山市三番丁の自宅・道場が戦災により焼失、戦後の混乱のため、散逸する武具・伝書も多数でました。しかし、流祖の肖像画をはじめとする貴重な伝書・武具を現在に伝え、戦後、門弟も減少する中、関口新心流の技法を守り通し、昭和46年の第26回国民体育大会(和歌山・黒潮国体)において、関口新心流柔術形を披露し流儀の護持に努めました。講道館柔道八段でもありました。

十三代‐関口芳夫氏広   (うじひろ)

 芳夫氏広は関口整骨院院長として、多忙な日々を送る中、当流の門弟育成に努め、和歌山市島橋東丁に関口新心流道場「新心館」を建設し、大東亜戦争で焼失した当流道場の再興を果たしました。和歌山県の少年柔道の発展にも尽くすとともに、日本古武道協会、日本古武道振興会にも所属し、各地の演武会に参加するなど、当流の一層の発展に努めております。

十代

明治39年、全国から京都に集まり、武特会の柔道の形を制定した委員たち。
前列右より3人目十代柔心氏胤 中央は嘉納治五郎

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